Derrida Today会議第8回(2024年6月10-14日、ギリシア、国立カポディストリアコス・アテネ大学)




2024年6月10-14日、ギリシアの国立カポディストリアコス・アテネ大学にて国際会議「Derrida Today」第8回が開かれた。デリダ没後から2年に1度開催される国際会議で、基調講演と企画パネルのほか、200ほどの発表がおこなわれた(そのうちオンライン発表は80)。コロナ禍で2020年のマルセイユ大会が中止となり、2022年にアメリカのアリゾナ大学で第7回が再開されたが、ほぼオンラインだった。今回は対面参加が増えており、コロナ前の活況を取り戻した。ギリシア開催なので、北米からの参加者は減り、ヨーロッパ各地からの参加者が目立つ。パリのデリダ研究会メンバーも数名参加しており、旧交を確認することができた。日本からは5名が現地、1名がオンラインで参加した。またフランス語での発表は23名であった(対面20、オンライン3;ただし、しばしば欠席や対面⇔オンラインの変更が生じたため、プログラム通りではなかった)。



(パリのデリダ研究会のメンバー)

膨大な発表数のなかから、今回のトレンドや目立つ主題を取り上げてみよう。
・動物論の発表は減り、動物に限らず、より大きな視点で生きもの全般を論じるエコ脱構築論が目立つ。デリダのコーラ読解をホーリスティックなガイア思想と関連付けて読むパネルが組まれた。
・「存在と石」は異色セッションで大賑わいだった。ナンシーは石に言及したが、デリダは動物止まりで、非人間的な倫理を扱えず、物質なき唯物論にとどまるのではないか。会場からは、デリダをそう結論づけるには物質や唯物論の定義が曖昧ではないか、デリダは世界を喪と関連付けるが、その視点をどう盛り込むか、などの質問が飛んで盛り上がった。
・時事的な主題としては、コロナ禍、ガザ占領、トランプの選挙活動などを扱うものがあった。とりわけChat GPTなどの生成AIと脱構築思想を論じる発表は4本ほど。Chat GPTをパロールなきエクリチュールとして分析し、ロゴス中心主義の技術展開を読み解くという趣旨である。
・講義録に関する発表としては、「歓待」「ハイデガー講義」「生死」がいくつかみられた。最新刊の「秘密に応答責任を負う」については、研究発表ではなく、緩やかなフリーディスカッションが組まれた。
・思想的な比較研究では、ナンシー、マラブー、シクスーを取り上げる発表が複数あった。



Aristides Baltas氏の特別セッションは興味深かった。Baltasは科学哲学を学び、パリにも留学して、アルチュセール研究に従事した。後年政治家になり、文化大臣も務めた。ダブルバインドから決断や責任、正義を導き出すデリダの思想は政治の「実践」として有益だった、という告白に感嘆した。

アンヌ・ベルジェの基調講演「心のポリティック」は圧巻だった。現在のパレスチナの惨状を踏まえて、深刻な政治的紛争の平和とは何かをデリダと共に、繊細に考える講演である。没後10年の際、マイケル・ナースが圧倒的な形で「デリダ最盛期」を講じたが、20年の今回にふさわしいこのベルジェ講演にも感嘆した。「他者の私の心(臓)」と、ナンシーとの私的対話のなかでデリダは表現する。もっとも内密な心は他者から到来し、他者へと差し宛てられる。同種の議論は最晩年の談話「私たち?」でもみられる。2002年春、デリダは国際作家会議の代表としてラマラ訪問を予定したが叶わず、動画記録を残した。談話で彼は、パレスチナとイスラエルの双方に心からの平和を呼びかける。イスラエル国家の暴力を指摘しつつ、心の問いと絡めて、「よりよく共に生きること」を唱えた。



「心はつねに生の側にあるのでしょう。心が私たちに語ります、よりよく生きなければならない、共に生きなければならない、たとえ離れ離れになっても、憎しみのなかで一人ずつ死ぬのではなく。「私たち」、私たちは単純な事実を思い出したいと思います、すべてのイスラエル人、すべてのパレスチナ人が、私たちと同じく、毎日心の中で私たちと同じように感じているはずだ、と。」

ベルジェはこの談話を基に、ハイデガーの詩論、デリダの政治観へのランシエールの批判、アルジェリアの幼年期などと関連させて重層的な議論を展開した。「心には理性ではわからない理屈がある」(パスカル)という不可知論に陥ることのないデリダの心の政治論が示された。



Philippe Lynesによるセミナー「物」(1975-77年)のMasterclassも圧倒的で今回のベスト。デリダは3年間をかけてハイデガーとブランショを論じ、同じ時期に『生死』『理論と実践』『時間を与える』の講義を平行して実施した。「物」は脱構築の存在論・形而上学が掘り下げられた重要セミナーである。ハイデガーのes gibtとブランショのil y aを参照しつつ、物の位相を無の特異性として読み解き、間化の哲学的・文学的・詩的次元を考察するデリダ。物の問いは90年代の証言論と切り離せない。物は言葉を語らないが、言葉を語る物こそが証言の核心にある。Lynesは講義録草稿の膨大な研究をもとに、物の教育、物の歴史、物の中性性、物の死、という構成で濃密な発表を披露した。



Eduardo Cadavaによる最終基調講演が劇的な形で会議を締めくくった。題目は「No Occupation 占領反対」。パレスチナ詩人マフムード・ダルウイーシュの「殺害された家」とデリダ「火ここになき灰」の銘句から講演は始まった。ガザ占領への批判的主張をデリダと関連付ける講演であることが察知され、終幕に向かって緩やかだった会場は一気に最高度に緊張した。ガザ占領のような植民地主義の不正義を批判するためにデリダの思想は極めて重要なリソースだ。『弔鐘』でのジュネとパレスチナ、「告白すること」や最後のインタビューでのイスラエルへの言及など、デリダの時事的な発言から現状を照射することができる。会場から質問が相次ぎ、ハマス批判もすべきという意見もあったが、Cadava氏は、現在の惨状を前にして双方を扱うことはできず、イスラエル側への見解を述べた方がいいと、冷静に知性的に応答をし、会場から拍手が沸き起こった。

コロナ禍を経て復活した五日間の国際会議で、対面での交流の素晴らしさを再確認した。とくに海外の研究動向は直接交流した方がよりよく理解できるし、次々と共同プロジェクトも生まれた。次回はいよいよパリ開催。Derrida Today会議がやっと、はじめて、フランスで実施される。(記:西山雄二)

今回のDerrida Today会議、二年前のアメリカではまだコロナ禍の尾が引いていた時期であったが、ようやくパンデミックの呪縛から解き放たれ、皆心置きなく対面参加ができたように思う。会場となったギリシアの地は、どことなくヴァカンス気分で訪問する高揚感も手伝っていたのかもしれない。日本からの参加者は、大学での授業期間の最中の訪問であったため、そうもいかなかったが。



今回私は発表したのは「読むことの盲目と洞察──デリダとド・マンの間の脱構築」という題名をもち、つい先日公刊した拙著『読むことのエチカ』(青土社)の要点からなる内容だった。Derrida Todayのこれまでの経験では、ド・マン関連で発表する参加者はあまりおらず、今回もさして期待していなかったのだが、私と同じパネルには、デリダの盲点をめぐって、ド・マンの盲目概念を起点としつつ、デリダの『盲者の記憶』も論じながら展開する発表があった。奇しくも私の発表と相補的な関係をなすものであり、発表後の議論もうまく噛み合い、有意義な発表パネルとなった。発表者は、"Derrida’s Chinese Prejudice"という論文(『グラマトロジーについて』の中国問題)で名前は知っていた、Sean Meighoo(エモリー大学)。今回の発表とは異なるが、個人的に知り合えたのも嬉しい出会いだった。

今回のDerrida Todayの全体については、西山雄二氏の行き届いたレポートがあるので、重複は避けたい。一点補足するとすれば、MasterClassのもう一人の担当だったAdam R. Rosenthalの講演だ。生ないし生命科学の問いからデリダの著作を読み直すことはデリダの遺稿が刊行されて以来、デリダ研究の大きなトレンドになっているが、Rosenthalの企ては、それを一般化し、デリダの「生き延び」ないしベンヤミンの「死後の生」の捉え方に含まれていた「歴史化された生」の観点から、「生の歴史」そのものを書き直すという大きなプロジェクトを打ち出すものであった。講演で引用されていた文章に、生化学者ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』の次の一文があった。「結局のところ、呼吸と焼尽は等価であり、その中間のわずかな遅延が、私たちが生命として知っているものなのである」。これは、デリダ的観点からすれば、生そのものに刻まれた差延構造を的確に言い表すものだろう。そうしたパースペクティヴから「生の哲学」の系譜はいかに書き換えられるのか。Rosenthalの企ては、今後大きな仕事として達成されることが期待されている。(記:宮﨑裕助)

 8th Derrida Today に参加した。期間は6月10日〜14日の5日間、場所はアテネ大学のModern Greek Language Center、開催形態はハイブリッド、使用言語は英語もしくはフランス語。200名以上の研究者が集まり、規模としてはかなり大きい会であったように思う。わたしは現地で参加した。わたしの場合、以前に参加したのが2018年のモントリオールのときだったから、6年越しの参加となる。アテネは猛暑で、汗まみれで会場に到着して発表を聴き、たどたどしい英語とフランス語で発表の感想を相手になんとか伝えようと頑張り、緊張しながら発表をして…と、そんな5日間だった。



 カンファレンスの全体的な様子についてはすでに他の執筆者が紹介をしてくれているので、わたしからは自分の聞いたものを中心に会の印象を書き記しておきたい。まず、全体的な印象として、植民地主義や脱植民地化をとりあげた発表ないしパネルが比較的多かったように思う。たとえば、 « Deconstruction at Large » というパネルでは、アテネ大学のMina Karavanta氏が脱構築と植民地主義の問題を論じた発表を行っていた。その発表では、デリダのアルジェリア体験やダナ・ハラウェイの思想を経由しながら、本来特異であるはずのさまざまな経験を言語や人種といった枠組みのもと同質化しようとする植民地主義的な思考に逆らうアットラージな思考としての脱構築が問題になっていた。

もうひとつ例をあげると、« Wynter vis-à-vis Derrida : Decolonial Deconstruction of Man »というタイトルで、ジャマイカの思想家シルヴィア・ウィンターとデリダを接続させるパネルが組まれていた。法、正義、教育、植民地主義と人種主義などさまざまな論点を横断しながら、ウィンターとデリダ(さらに、アレクシス・ポーリン・ガムス)における脱植民地化の思考の接点を見いだそうとする内容だった。

またわたしは聞けなかったが、2022年に脱構築研究会でセミナーを行ったこともあるヘクター・G・カスターノ氏の発表も、ヨーロッパ型の思考様式を特権化する哲学のナショナリズムに対するデリダの批判をとおして、非ヨーロッパ的思考の可能性を模索する内容だったようで、これも植民地主義の問題につながるテーマだと言えるだろう。ちなみにわたし自身の発表も、植民地主義の観点からデリダの哲学教育論を検討する内容だった。期せずして自分の問題関心に重なる発表に接することができて、わたしにとっては実りの多い機会になった。



 さらに今回のカンファレンスでは、哲学や思想史、文学などいわゆる人文科学の文脈だけでなく、数学上の問題にデリダの思想をつなげようとする発表があった点も印象に残った。たとえば、現代幾何学におけるフラクタル概念との関連から、フッサールの『幾何学の起源』とデリダの序論を取りあげる発表があった。『幾何学の起源』への序論は、フッサール現象学をデリダがどう見ていたかという観点から読まれることが多いが、この発表では、フラクタルという幾何学上の概念を用いてデリダ(およびフッサール)における理念的対象の問題を再検討することが主眼であり、その意味では、デリダの思想を数学的・幾何学的な諸問題に結びつける試みだったと言えるだろう。

総じて今回のカンファレンスは、文献学的なアプローチはもちろん、現代の政治・社会情勢や他分野との関連を見据えて、自由にデリダの思想を論じる挑戦的な発表も多く、基礎と応用のバランスがうまくとれた刺激的な会だった。その意味で、今回のカンファレンスは、できるだけ多くのアプローチを集めようというコミッティー側の姿勢が強く感じられた会であった。(記:松田智裕)